小鳥の遊び場

詩と文のライブラリ

天国のような無意識

 心が私達には足らない。そう思わざるを得ないことが起きてしまった。人が1人、死のうとした。間接的に私達のせい。私達がもっと上手く『解離という本能』に強くなっていたらこんなことにはなっていなかった。自分に甘すぎる。人を見ろ。他者を守れ。これが私達の全てだったのに、かがりちゃんは『自分を甘やかした』。

 

 薬に逃げがちのかがりちゃんは、よく、後先考えずに行動してしまう。もっと慎重にならないといけない所を、彼女はいとも簡単に決めてしまう。友達付き合いも、何にも考えずに決めてしまう。そのかがりちゃんの後始末をするのが、毎回、他者であることが多い。その人に迷惑と混乱を招いてしまう事が多々ある。全てがかがりちゃんが悪いわけではない。彼女は人格なのだから、私やエル君辺りが止めに入れば良かったのよ。でも、私達はしなかった。何故?簡単。『みんなが嫌がった主人格をしようとしてくれているから』。かがりちゃんは最も苦しくて辛い『主人格』をしてくれているから、私達も遠慮するのよ。「かがりちゃんが良いって言ったのだからそうしてみましょうか」と、こんな感じに。

 

 しかし、絶対ダメなことはさせないわ。『自殺』や『自分を傷付ける行為』なんかは、基本的にはみんなで食い止めましょう。と言うふうに再構成日記ではやらさせていただいています。勝手ながら。まあ、自分たちの『人生』に許可とかはないと思うのだけれど、ね。今回の件は特に『許可』ではなくって『体感』してわかる案件だった。だから自分を責めてはならないのだけれど、『人の生き死に』が関わっているとなると、私達は全力で助けに行くわ。無理なことはいっぱいあるけれど、やれることは制限もかかってしまうことはあるけれど、出来ることは確実にして行きたいと思っているの。

 『体感』を通して知っていくことは人には必要だと思う。だから、間違えてでも経験は積むことは大切だと、私は思っているのね。そうね、人と人の距離は体感で学ぶのは難しいし、出来てることはほとんど無いのだけれど、人間関係の構築に関して言えば、『信用』というのは大きく関わっているはずであるわね。まあ、堅苦しいことを書いてしまってはいるけど、要はね、体感しないと無理なことはいっぱいある。出来ないこともいっぱいある。だから、今回のは『致し方なかった』と思うことで良いのだと思うんだけれど。

 

 危機が迫っている時、逃げる方法を本能は探し始める。その意思の中に、『解離』は当てはまるわけだけど、解離した人格にとっても、外での体感というものが蓄積されることにより、より良い成長を促すことができる、とも考えているのよね。まあ、最終的に決めるのは本人の気持ち次第だというのは、それはそう。法律とか裁判とかそういうのを抜きにした時に、何が一番かと言ったら、やっぱり、自分の感覚・直感、話を聞いてくれる人だったりそういう依存先・頼り先をたくさん作っておくことは、とても大切で、人生を豊かにしてくれる。依存という言い方はかなりブラックのような言い方にはなってしまってはいるが、依存というよりは、何に対して頼れるという依存先を見つけるのがベストだと思うのよね。サポートの関わり合いをどう繋げていくのかが一番なんじゃないかと私は思うのよ。

 

 とりあえず、今日はかなり長文になってしまったから、そろそろ引き上げましょうかね。