小鳥の遊び場

詩と文のライブラリ

「日々の生活で感じること」

 毎日にを忙しく暮らしていく中で、余裕がない人たちが大勢いるのを感じる。信号無視とか、携帯見ながら歩くとか、自転車を歩道で通っていくとか。ほんの少しの余裕で事故や事件、法律なんかも変わってくるのに何故それをしないのか。私には理解できないわ。

 

 この前気づいたことがあるの。私、内界と表を行ったり来たりしているようなのよ。だから、簡単にぽこんってでたり、帰ったりできるみたい。なんだか、都合の良い人格よね。ずるいって言われてもしかたないわ。みんな必死なのに、私だけ楽して生きているようなものだもの。もちろん、タスクはあるわ。それでも、簡単に出たり入ったりできるのは反則よね。同じ病気の方からしたら私の存在はせこい、もしくは似非と言われても仕方ないわ。でも、実在しているのは確かなのよ。ごめんなさい。


 話を戻して、ゆとりのない生活を送っている方々、とても大変だと思うわ。仕方ないのかもしれないのかもしれないけど、ゆったり生きてほしいと私は思うのね。それこそヨーロッパの、どっかの国のように、ブレイクタイムを3時に設けるとか。それぐらいの猶予があっても良いと思うのよ。ほら悲しいじゃない。子供が急いで自転車を歩道で通ってて、携帯見てた会社員と、ぶつかったとかの、話って。双方悪いのだけど場合によっては、子供が悪いと言われかねないのよ。そんなの苦しいわ。とても悲しい話ね。


 ゆとりがないことが悲しい結果を齎すことがあると話したけど、最終的には私達にも、ゆとりはないのよね。ないではなくて、出来ないの方が、しっくりくるかしら。中でわちゃわちゃしている私達にもゆとりというものはいまいちないわけで、悲しい話。薬が手放せない日々よ。早くそんな日々から解放されてゆとりのある生活をしたいものね。

 

 昨日はごめんなさい。書けてなかったわね。そのかわり、今日、できたら、2つ文をあげることにするわ。


京華